…ドラッカーの歩み …世界の出来事
11月19日、オーストリアの首都ウィーンに生まれる。父アドルフは、オーストリア・ハンガリー帝国の経済省に勤める高級官僚で、経済学者。のちに米国ノースカロライナ大学の教授を務めた。ザルツブルク音楽祭の創始者、母カロリーネは銀行家の娘で、医学を専攻したオーストリア初の女性だった。
マリネッティが「フィガロ」紙上に“未来派宣言”を発表。伊藤博文が暗殺された。米国ではフォードが生産車種をT型フォードに限定、大量生産方式が定着する。
シュンペーター 『経済発展の理論』発表。
第一次世界大戦勃発。
公立の小学校に入学するも、字があまりに下手で、心配した親が私立の小学校に転校させる。ここで、ミス・エルザとミス・ゾフィーという二人の教師に出会う。ドラッカーは二人の教授法に強く影響され、後の「目標管理」のヒントとなる。結局、悪筆は直らなかったが、飛び級を果たし、本来5年間通う小学校を4年で終える。
両親の知り合いであった精神分析医フロイトに紹介される。フロイトに接したのはこの一度だけだったが、「ヨーロッパで一番偉い人かもしれない」との父の言葉に、強く印象づけられる。
フロイト『精神分析入門』発表。
11月11日、ハプスブルク家最後の皇帝が退位し、オーストリアは共和制に移行。
ウィーンのギムナジウムに入学。8年間通うが、ギムナジウムはラテン語とギリシャ語の文法で記憶力を鍛える場所でしかなかった。依然として、ドラッカーは字が汚かった。見かねた父親がペン習字の講習に通わせたが、ほとんど効果はなかった。
フロイト『集団心理と自我の分析』発表。
ギムナジウムを卒業し、ドイツのハンブルクで、インドに金属製品を輸出する貿易会社の見習いとして1年3カ月勤める。「私は早く生活費を稼いで、経済的に自立しようと思った」。夜間は読書に励み、哲学者キルケゴールを知る。当時キルケゴールは、母国デンマーク以外ではほとんど無名の存在だった。22年後の1949年、ドラッカーは、社会に関するもの以外について論じた唯一の論文「もう一人のキルケゴール」を発表。一方、ドラッカーが大学に進学しなかったことに失望する父を喜ばせようと、ハンブルク大学法学部に入学。当然、一度も講義には出席せず。期末試験さえ受ければ単位が取得できるのどかな時代だった。暮れに、経済人類学者のカール・ポランニーと知り合う。「火山岩のようにすさまじい勢いで言葉を繰り出す」ポランニーとドラッカーは、意見はかみ合わなかったが、馬は合った。後にドラッカーは、ポランニーにベニントン・カレッジの教授職を紹介し、1942年、二人は同僚になった。
フランクフルト大学に移籍。老舗のマーチャント・バンクに証券アナリストとして就職。しかし、ニューヨーク株式市場の大暴落により会社は倒産。ニューヨーク株式はさらに値上がりするという内容の論文を発表していたドラッカーは、これ以降、数式モデルによる予測を一切止める。その後、フランクフルト随一の発行部数を誇る「フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガー」紙に金融・外交担当記者として入社し、すぐに上級編集者に昇格。わずか20歳で大手新聞社の上級編集者になった背景には、第一次世界大戦のためにドラッカーの上の世代がほとんど戦死していたという事情があった。編集長のエーリッヒ・ドンブロウスキーより、「自己採点」の方法を学ぶ。
ケインズ 『貨幣論』 発表。
フランクフルト大学の国際法・国際関係論の博士号を取得。このころからナチスの権力掌握を予想し、しばしばヒトラーをインタビューする。
オーストリア最大の銀行が倒産。ハイエク『価格と生産』発表。
ドイツにおいてヒトラーが政権を掌握。ドイツの保守政治哲学者をテーマに執筆した論文がナチスの不興を買うことを確信して、イギリスに逃れる。事実上の焚書処分となる。ロンドンで、大手保険会社の証券アナリスト、マーチャント・バンクのエコノミスト。しかし、金融の仕事は長続きしなかった。「わたしは人間の本質により関心があった。だから研究したいと思ったし、書きたいと思った」。
ケンブリッジ大学で開かれた経済学者ジョン・メイナード・ケインズのセミナーに参加するも肌に合わず。自分の関心が、「商品の行動」よりも「人間の行動」にあり、経済学者には向かないことを悟る。ロンドンで開かれていた日本絵画展を鑑賞。これが、日本文化との初めての出会い、その後の強い関心のきっかけとなる。
アメリカの新聞や雑誌に寄稿を始める。未来志向のアメリカに強い魅力を感じる。
マインツ出身のドイツ人ドリス・シュミット(法律専攻、後に物理学者)と結婚。一男三女をもうける。「フィナンシャル・ニュース」(現在の「フィナンシャル・タイムズ」)などイギリスの大手新聞社数社に記事を送る契約を結び、アメリカに移住。
ディズニーの長編カラーアニメ『白雪姫』公開。
サラ・ローレンス・カレッジ(ニューヨーク州)の経済学・統計学の非常勤講師に就任。ファシズムの起源を分析した 『「経済人」の終わり』 を刊行。時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルが激賞。同書は、ナチスがヨーロッパのユダヤ人を皆殺しにする道をたどらざるをえなくなること、いずれヒトラーとスターリンが条約を結ぶことを予告。6カ月後には独ソ不可侵条約が結ばれ、やがてユダヤ人虐殺が始まった。 『経済人の終わり』 を読んだタイム社の創業者で社主のヘンリー・ルースから、 「タイム」 誌の海外ニュース担当編集責任者のポストを提供されるも、断る。理由は、タイム式の「グループ・ジャーナリズム」が肌に合わないと感じたためだった。しかしルースはこれに懲りず、その後しばしばドラッカーにアドバイスを求める。
第二次世界大戦勃発。
再びヘンリー・ルースから、ビジネス誌 「フォーチュン」 の創刊10周年記念号への助力を求められ、参画。「アメリカの農業」と「アメリカの労働」に関する主要記事2本の執筆のほか、その後の定期号用の記事の編集作業にも携わる。同年、電子メディアの予言者マーシャル・マクルーハンと知り合い、以降友人関係が続く。ちなみに、マクルーハンが「メディアはメッセージである」と論じたのは、この24年後である。
社会成立の条件とよりよい社会への改革の道を模索した 『産業人の未来』 を刊行。ドラッカー社会学の原点となる。ベニントン・カレッジ(バーモント州)の哲学および政治学の教授に就任(~1949年)。同僚には、『自由からの逃走』の精神分析学者エーリッヒ・フロム、ドラッカーのおかげで教職をえた経済人類学者のカール・ポランニー、モダン・ダンスのマーサ・グラハムがいた。ポランニーとドラッカーでは、目指すべき社会像がまったく違ったが、ポランニーの著『大転換』には、「本書の主張に全面的に反対していたにもかかわらず、ドラッカーと彼の妻からは、何度となく励ましを受けた」との謝辞がある。ジョージ・マーシャルの下で、政府の特別顧問をつとめる。
シュンペーター 『資本主義・社会主義・民主主義』発表。
『産業人の未来』 を読んだゼネラル・モーターズ(GM)社の幹部から、同社の経営方針と組織構造の研究を依頼される。これが、初めてマネジメントに関心を持つきっかけとなった。ドラッカーは18カ月をかけて、すべてのマネージャーにインタビューを行なった。なかでもGMの再建と改革に腐心した会長のアルフレッド・スローン・ジュニアは、ドラッカーに多大の影響を与えた。この年、アメリカ国籍を取得。
カール・ポランニー 『大転換』 を発表。
GMの研究が『会社という概念』に結実(後に『企業とは何か』に改題)。GMを現代社会における代表的な機関として位置づけた。発売と同時にベストセラーとなり、フォード社の改革の教科書となった。組織原理の一つとして現在では当たり前になっている「分権化」を提唱。組織のマネジメントを研究する世界初の書となった。しかし学界からは、経済学と政治学の余興としか見られず、有力者に「その才能を、もっとちゃんとしたテーマに向けるよう祈る」と諭される始末だった。当時、企業の研究は、まだ学問分野として認められていなかった。1946年にフォード社の実権を握ったヘンリー・フォード二世は、同書のアイデアを導入し、倒産寸前に陥っていたフォードの再建に成功した。ゼネラル・エレクトリック(GE)社も1950年、ドラッカーをコンサルタントとして迎え、分権化に踏み切った。分権化の勢いはアメリカ全土に広まり、1980年までに、フォーチュン500社の75~80パーセントが大規模な分権化を実施した。日本では、トヨタ自動車が1950年代に取り入れ、「責任ある労働者」に品質の高い仕事をさせる基礎を築いた。
第二次世界大戦終焉。
マーシャル・プランの実施指導のため、フランス、イギリス、イタリア、ベルギー、西ドイツを視察。
ポール・サミュエルソン『経済分析の基礎』発表。
ニューヨーク大学大学院経営学部教授に就任(~1971年)。『新しい社会と新しい経営』を刊行。その書き出しは、次のように始まる。「現代の世界革命は、ほかならぬ“アメリカ製”である」。オーストリア時代に父親の同僚であり、自分も教えを受けたことのある病気療養中の経済学者ヨーゼフ・シュンペーターを父親と訪問。
ケネス・ボールディング『経済学の再建』発表。
『現代の経営』 の刊行によって、「マネジメント」が誕生した。この発明により、人々はマネジメントを学ぶことができるようになった。1950年代から60年代にかけての「マネジメント・ブーム」のさきがけとなる。現在では一般的となっている「目標管理」を同書で提唱。後年、『エクセレント・カンパニー』の共著者トム・ピータースが、「私たちが書いたことはすべて、ドラッカーの『現代の経営』に書かれている」と発言した。
『オートメーションと新しい社会』を刊行。経済学者のハイルブローナーは同書を評して、「ドラッカー氏がいみじくも言うように、“未来を決定づける大きな出来事はすでに起こっている。これを取り消すことはもうできない”」と言った。
東京通信工業からソニーに改名。
『変貌する産業社会』を刊行。同書で、ドラッカーは冷戦に対する見方を鮮明にした。「共産主義は悪である。人の嫉妬心や憎悪という罪を原動力にしているからだ」。初めて来日し、「経営の水平線」をテーマに東京・大阪などで講演。東洋レーヨン、立石電機(当時)、興亜石油などを訪問。水墨画と着彩画各一点を購入(山荘コレクションの始まり)。ドイツ語での論文集『明日のための思想』を刊行。
来日して講演。
日本では池田内閣が“国民所得倍増計画”を閣議決定。高度経済成長時代に突入。初めて二輪車の生産台数が世界第1位に。
ベルリンの壁構築。
来日して講演。東京の書画店で禅画と出会う。アメリカ・マネジメント・ソサエティーズよりウォーレス・クラーク賞を受賞。
マクルーハン『グーテンベルグの銀河系』発表。
『創造する経営者』 を刊行。後に「ABC会計」として発展した事業診断の手法を提唱し、「事業とは何か」を明らかにする。“経営戦略”を論じた世界初の書。ドラッカーの著作の中で、唯一図表を使っている。発売当初、書名を『ビジネス・ストラテジー』とする予定だったが、「戦略という言葉は、軍隊や政治家の選挙で使われる言葉だ。ビジネスにはふさわしくない」とのビジネスマンの声が多く、断念。しかし現在では、ビジネス書の書名に頻繁に用いられている。来日して講演。
『経営者の条件』 を刊行。成果を上げるための方法を説く。本書は、ニュート・ギングリッチ米下院議長の愛読書。そのオフィスには、本書から引用した「会議をするか、仕事をするか。両方を一度にやることはできない」との張り紙がある。日本政府より「産業経営の近代化および日米親善への寄与」の功で勲三等瑞宝章を受章。
松下電器産業が職種別賃金を採用。
米国第3次合併ブームでコングロマリット拡大。
『断絶の時代』 を刊行。本書によって、現代社会の哲人としての名声を不動にする。イギリスの首相マーガレット・サッチャーは、本書をもとに「民営化」を推進し、その影響は世界中に広がる。時の大統領リチャード・ニクソンが、本書を意識して次のように演説。「現代の政府がうまくこなせる仕事といえば戦争の遂行と通貨の増発ぐらいしかないとドラッカー教授は言っているそうだ。だが私が大統領に就任したからにはそうはいかない。教授の見方が誤りであることを証明してやろうじゃないか」。来日し、「新しい経営を探求する」をテーマに講演。
クレアモント大学 大学院社会科学部教授に就任。
ドルショック。スミソニアン協定締結。
『新しい経営行動の探究』を刊行。来日し、「断絶の時代の経営者」をテーマに講演。
ローマクラブ『成長の限界』発表。富士写真フイルムがTQC活動開始。
オイルショック。ニクソンがエネルギー独立計画、大豆禁輸。ダニエル・ベル『脱工業化社会』発表。
『マネジメント』を刊行。マネジメントの課題とその方法を明らかにしたドラッカー経営学の集大成。今日も、大学、ビジネススクールの教科書として使われている。
アメリカ金解禁。野中郁次郎『組織と市場』発表。
「ウォールストリート・ジャーナル」 紙の論説面に月1本のペースで寄稿を開始。来日し、「マネジメントへの新しい挑戦」をテーマに講演。
マイクロソフト設立。
『見えざる革命』 を刊行。高齢者の健康や住居しか論じられていなかった当時に、突然、人口構造の激変とその様相について論じる。年金基金がアメリカの大企業の支配的所有者になり、アメリカ唯一の資本家になったことを指摘。経済学者のケネス・ボールディングが書評で、「アメリカ最高の思索家」と激賞。
『状況への挑戦』を刊行。
ガルブレイス『不確実性の時代』発表。
自伝『傍観者の時代』を刊行。それまで出会った人々を中心に、1940年代までを語る。自らを「傍観者、観察者」と規定する。「山荘コレクション展」をニューヨーク、シアトルなど5会場で開催。クレアモント大学ポモナ校の東洋美術講座の講師に就任(~1985年)。
『乱気流時代の経営』 を刊行。「乱気流の時代にあっては、経営管理者にとって最大の責任は、自らの組織の生存を確実にすることである。組織の構造を健全かつ堅固にし、打撃に耐えられるようにすることである。そして急激な変化に対応し、機会をとらえることである」の一文に始まる本書は、あたかもバブルの時代を見透かしていたかのようである。現在流行のキャッシュフロー経営を、本書はすでに説いていた。来日し、同書をテーマに講演。
米国でCNN放送開始。
GEのジャック・ウェルチが会長に就任。ドラッカーから学んだアイデアを活かし、それぞれの市場でナンバー1かナンバー2になることを戦略目標にする。IBMがパーソナル・コンピュータIBM-PC発表。
初めての小説『最後の四重奏』を刊行。また『変貌する経営者の世界』を刊行。来日し、同書をテーマに講演。
2冊目の小説『善への誘惑』を刊行。
AT&T分割。今井賢一『情報ネットワーク社会』発表。
『イノベーションと企業家精神』 を刊行。イノベーションと起業家精神が、天才のひらめきや天賦の才ではなく、誰でも学び実行することができるものであることを明らかにする。来日し、同書をテーマに講演。
民営化によりNTTと日本たばこ産業が発足。
『マネジメント・フロンティア』を刊行。「ドラッカー・コレクション、水墨画名作展」を東京・大阪など4会場で開催。来日し、「変貌する世界経済と日本へのインパクト」等のテーマで講演。
IBMパーソナル・システムズ事業部門できる。
『新しい現実』を刊行。21世紀がすでに始まっていることを明らかにする。ソ連邦の崩壊を予告し、世界的な大反響を呼ぶ。来日し、同書をテーマに講演。
ベルリンの壁撤廃。米国でスーパー301条発動。
来日し、「いま激動の時代――21世紀への飛躍」等のテーマで講演。
『非営利組織の経営』 を刊行。非営利組織の増大を予告し、そのマネジメントのあり方を明らかにする。「ニューヨーク・タイムズ」紙が、「現代において最も刺激的な経営思想家という評判をもたらした、あの力強くて思慮に富み、心を解きほぐすようなアドバイスを、非営利組織のマネージャーたちも享受できる魅力的な本だ」と激賞。
日本で金融・証券不祥事続発。
『未来企業』 を刊行。激動の時代を生き残るために、ビジネスマンが心得ておくべき情報や知識を明らかにする。
米国IBMとシアーズ・ローバックがアウトソーシング事業の新会社を設立。WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)正式発表。金子郁容『ボランティア』発表。
『ポスト資本主義社会』 を刊行。資本主義社会の後に来るものが知識社会であることを明らかにする。来日し、同書をテーマに講演。「今後はいかに知識労働者の生産性を向上させるかがすべてのカギ」と指摘。同年、40年以上を越える執筆活動から著者自身が選んだ論文をまとめ 『すでに起こった未来』 を刊行。本書においてドラッカーは、自らを「社会生態学者」と規定する。
米国ゴア副大統領が“情報スーパーハイウェー構想”を提唱。ドラッカーの説く情報化の推進を経済政策の柱とする。
来日し、「企業の再創造」をテーマに講演。
ガットのウルグアイラウンドで世界貿易機関(WTO)の設立を決定。
『未来への決断』 を刊行。いま起こりつつある変化を分析し、ビジネスマンが、いつ、何を、いかに行うべきかを説く。
マイクロソフトが「 Windows95 」を発売。世界中で1億本を売る。
来日し、 「新乱気流の時代」 等のテーマで講演。「最近の日本について最も重要なのは、人口構造の変化に伴う高齢者の問題だ」と指摘。
アメリカのビジネス誌 「フォーブス」 の表紙を飾る。タイトルは、Still the YOUNGEST MIND(まだ気持ちは一番若い)。 「フォーリン・アフェアーズ」 誌に発表した「グローバル・エコノミーと国民国家」が世界的反響を呼ぶ。
『P・F・ドラッカー経営論集』を刊行。マネジメント専門誌 「ハーバード・ビジネス・レビュー」 収載のドラッカー論文13本を厳選。同誌への論文の寄稿は1950年以来、30本を超える。
『明日を支配するもの』 を刊行。世界17カ国で発売され、ベストセラーとなる。ビジネスの前提が変わり、現実が変わったことを明らかにする。日本の人口は21世紀末に5000万あるいは5500万人に減少すると指摘するなど、先進国で人口構造の激変が続いていることを警告。ドラッカーを先駆者とする「ナレッジ(=知識)・マネジメント」が注目を集める。
「はじめて読むドラッカー」三部作 『プロフェッショナルの条件』 『チェンジ・リーダーの条件』 『イノベーターの条件』 を、世界に先駆け日本刊行。ベストセラーとなる。ビジネス界におけるプロ意識の高まりのなかで、大反響を呼ぶ。『非営利組織の成果重視マネジメント』刊行。
『ネクスト・ソサエティ』を刊行。ビジネス環境の著しい変化の中で、組織とそこに働く人々に、どのような変化が起こりつつあるかを洞察。「一つひとつの組織、一人ひとりの成功と失敗にとって、経済よりも社会の変化のほうが重大な意味をもつにいたった」と指摘し、世界的なベストセラーとなる。
7月、「はじめて読むドラッカー」シリーズの4作目として『テクノロジストの条件』を刊行。ものづくりの意義とその役割を歴史的に解明した書として、多くの技術者、職人の方々から好評を得る。
11月11日午前7時20分(現地時間)、96歳の誕生日を目前にして永眠。